以前、将棋の藤井聡太くんが
「授業で理解できているのに、
なぜ宿題をやる必要があるのですか」
という質問をしたと話題になったことがありました。
確かに、授業で完全に理解している内容であれば、
もう一度行うことに意味はほとんどないように思います。
彼は他にやりたいことがあるため、
意義を見出せないことはやりたくなかったのだろうな、
と個人的には受け止めました。
さて本題です。
公立中学校で内申点を稼ぐためには
例えば以下のような作業が必要であるという記事を見ました。
公立中学校の教科の内容は十分理解しているのだが、
・あえて先生に質問に行ってやる気をアピールする
・ノート提出などでは、初回は一部をわざと間違え、
再提出の際に正答することで、
努力の結果理解できるようになった、というアピールをする
初回はわざと間違えて努力を見せるとか、
世の中には凄い発想があるんだなと思いました。
・わざと間違えてもう一度出すとか、完全に時間の無駄ではないか
・公立中の先生は部活指導とかで忙しいんじゃないのか、
そんな無駄な質問(わかっている内容をあえて聞く)をして
仕事を増やすような奴の成績が上がるのはおかしいのではないか
などと思ってしまうような人は
公立中→都立トップ高校のルートにはあまり向いていないと思います。
事情が許せば、実力のみで公平な中学受験はお勧めです。
ところが、
こうした、いわゆる「内申美人」とも
一部で呼ばれるような振る舞いについて、
「社会に出れば上司や取引先に好かれることも大事だから、
このような経験も必要である」
という意見もあるようです。
やはり色々な意見があるものです。
確かに人間関係を円滑に進めることは必要かもしれませんが、
それは中学校で、
このような形で高校への進学を人質にとってまで、
身に着けさせるべき内容なのでしょうか。
もう1点、
こちらは教育内容自体への疑義なので別の観点ではありますが、
同様に成績が人質になっているので。
以前、国語の語彙問題について
「テストでは、ワークの解答と一字一句違わず書かないと×にする」
と指示する公立中の国語プリントを見たことがあります。
当たり前ですが、同じ言葉でも
「辞書によって表現の仕方が違う」というのは普通です。
普通ですが、
(理由を推測すれば)
「採点が面倒だからワークの答え以外は受け付けない」ということです。
公立中の先生は色々多忙であるとか、
そのような指示をした理由は何かあるのかもしれません。
しかし、ここでは生徒の多様性や
日本語の表現の豊かさというものは
採点側の都合によってすべて無視されています。
当然ながら、
生徒はワークの答えをひたすら丸暗記することになるでしょう。
自分もそんなに偉そうなことは言えないのですが、
あえて言ってしまえば、
これは果たして教育と言えるのでしょうか。
中学受験のテストでも、塾の記述問題の答えを
機械的に(時にはとても雑に)丸写しするだけになっている子は結構います。
やはり偉そうなことは言えないのですが、
国語とはそういうものではないよね、と思っています。